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ブラック・スワン

"I have nothing."。芸術の魔性。"dark impulse"の源泉。すなわち、親殺し。己の生命を燃やし尽くした先に到達できる、人類の存続さえ超越した至高の瞬間。私が次の世代への継続を語るとき、この深奥へ到達できないことへの諦めが、はたしてそこに無いと言えるだろうか。メフィストフェレスのファウストへ告げるが如く、世界の全てを魅了する一秒を積み上げた数十年の幸福と交換に与えようと言われれば、はたして私は拒絶できるだろうか。しかしながら、崇高な疑念の交錯する中に去来した小生の下世話な想念は、「まるでアミダラ王女がアナキンの苦しみを苦しんでいるみたいだな」という内容でした。

英国王のスピーチ

「生まれつき吃音の子どもはいません」。そう、生まれつき養育者を憎む子どもはいないし、生まれつき二次元を愛好する子どもははいないし、 生まれつきおたくの子どもはいない。つまりそれらは、のちの矯正により植えつけられた、後天的な性質であるということだ。この吃音というモチーフは、少なくとも精神的にはひどいどもりであるところの我々が抱える課題と大きく重なる部分を持つ。おたく諸氏は大戦萌えやら貴族萌えやらの言い訳を用意して、身体を斜めにしながら視聴を開始せよ。映画が終わる頃には、諸君の身体はまっすぐになっているはずだ。あと、内容に関して少し触れるならば、最後のスピーチの場面は大きなプレゼンを前に控えるあの緊張感がとてもよく伝わったが、国の存亡というよりは己のスピーチの成否にのみ気持ちがある様子は反面教師にしなければならないな、と思った。この二つは同じ重さで、同じ場所になければならない。それと、役者の力量のみが説得力を作るこの作品の中で、チャーチル役が演技負けしてるのがおしいなあ、と思った。なんか、モノマネのレベルなの。

天元突破グレンラガン螺巌篇

この国の芸術には、常に出自の問題がつきまとう。前にも書いたが、本邦ではエロ・グロ・パロディを選択した時点で、決して権威として正統化されることはない。皇室や梨園を引き合いに出すまでもなく、血や生まれがレジティマシーを担保するからだ。本作は、三十代以上のおたくが視聴してきた作品の徹底的なパロディという極めて狭い入口から始まりながら、最終的にはある広がりを持つ普遍性へとたどりついた。しかしながらその出自ゆえにあらかじめ、例えばエヴァンゲリオンになる可能性を閉ざされている。話は変わるが、最近アリスソフトのランス・クエストをプレイした。世界設定とキャラ萌えのみで構築されたすさまじいエロゲーで、当方のMMGF!に何が足りなかったのかを痛感させられた。そして、このゲームもやはり先のアニメと同様に、エロとパロディという出自の問題を抱えている。三十代から四十代のおたくというコアターゲットのみが存在する作り方をしており、そのねらいに該当するだろう私は大いに楽しんだが、同時に完全な袋小路にいる息苦しさを禁じ得なかった。それは、インターネットに出自を持つ私が常に感じている息苦しさと同質のものだった。つまり、ある一定の普遍性に到達しながら、ここからはどこへも行けない、次の誰かへつながることはない、という。

アリス

この作品のブルーレイ化企画を通したのは誰だあっ!! きさまか!! この小鳥猊下の財布を試すような生意気なことをしたのはっ!! ふっふっ………DVD版をすでに所持しているこの小鳥猊下の財布を試しおって生意気な小僧だ。しかし小鳥猊下を唸らせるとは感心だ、次のシュヴァンクマイエル作品のブルーレイ化にかかれ!!

サッカー・パンチ

おたくが好むストーリーテリングを定義する要素は2つある。1つ目は、養育者との良好ではない関係性の再演。これについてはnWo読者ならば全員、「またか」と眉をひそめるほど語っているので、ここでは改めては触れない。2つ目は、己の性を含んだ身体性の拒絶。身体性を放棄した少女が男性にセックスを仮託するときそれはBLとなり、身体性を放棄した男性が少女にセックスを仮託するときそれはエロゲーとなる。自己と身体性が乖離していなければ、それこそアダルトビデオの快楽で充分だろうが、性に至るための回路が、精神的課題を経由することでねじれてしまっているのだ。二次元のエロと三次元のエロが我々にとって等価ではなく、ときにBLやエロゲーの中に高い文学性を含んだものが出現する理由がここにある。養育者との関係性と身体性の拒絶、これら2つの要素が暗示的、あるいは象徴的にストーリーへ織り込まれていることは、ゆえにおたく層を強く引きつけるが、同時にそれ以外の人々に対する明確な阻害要因となる。本作は配給会社が「エンジェルウォーズ」なる奇ッ怪の邦題をつけたことにより、本来は見るべきでない人々に届いた結果として、本質から外れた悪評を多く残してしまった。この類の作品に対するマーケティングの、ひとつの失敗例だと思う。

ガリバー旅行記

ジャック・ブラック主演の時点で無条件買いなんだよ! いいだろ、俺にとってのブサメンパラダイスなんだからよ! オマエらが顔面と歌唱力の不自由なアイドルとの一時的接触を買春するために大量のブランクディスクをアヘ顔で買い求めるようなもんだろ! なのに、おい、製作サイドども! 「ジャック・ブラックの顔芸だけじゃもたねーな」とか、急に冷静になって思いきり尺を縮めてんじゃねーよ! いいんだよ、二時間半に編集すりゃあ! 急に一般層を意識してんじゃねーよ! この映画を見てんのは、ジャック・ブラックのファンしかいねーんだから、そこを突き詰めろよ! うんこアイドルのうんこPVと同じだろ! いいんだよ、ファン以外にとってはうんこで! 日和ってんじゃねーぞ、コラ!

塔の上のラプンツェル

ピクサーがここまで大きくなったのは、ダビデとゴリアテの昔から、みんな驕れる巨人を倒す小人の話が大好きだからだ。しかし、驕らない巨人、休まないウサギが勝負にさえ見えないレベルで圧倒的に勝ち続けるという状況が世界の大部分を占めることは覚えておいて欲しい。君たちは為政者側が提供する弱者慰撫の寓話に騙されてはならない。閑話休題。「魔法にかけられて」を作ったことでいよいよディズニーは両目が開き、二つ目の千年紀に突入したのかもしれぬ。本作ではディズニー定番の恋愛劇の裏側で、原作の持つしたたるような毒が希釈されずに保持されている。見たくない者には見えない場所に配置したことで、観客を選抜せずに物語へ厚みを与えることに成功したのだ。アングラ劇の陥りがちな、過激化で少数を選抜しその少数をさらにコア化するという手法とは真逆であり、己の出自を強く誇る胸を張った王道感が素晴らしい。「予を誰と心得る。ディズニーであるぞ。かような姑息の勝ちは我が覇道を昏くする」といった台詞が、公家っぽいボイスですぐ耳元に再生されるようだ(幻聴です)。指摘するまでもないが、この物語は母と娘の間にまま生じる深い共依存、さらには相姦関係を描いており、「仲良しの、友だちみたいな母娘って、なんか気持ちワリーな」などと漠然と感じている全国六千万のマスオさんは、その漠然とした違和感を明瞭化するために、サザエさんとともに視聴するとよい。サザエさんは表層に目を輝かせ、マスオさんは裏の本質に呻吟する状況を世紀末覇者・ディズニーが想定していたとすれば、実にパンクだ。けど、ゴムみたいなチューはいただけないと思った。作り手のフェチを強要されていると感じるぐらい淫靡な髪の毛の描写と対照的で、ラバーメン感がものすごい。もっとこう、フワッとマシュマロみたいなチューをせんかい。

ソーシャル・ネットワーク

実在の天才の周辺を実名そのままに映画化したという一点において、デビッド・フィンチャーの力技を感じさせられる。しかしながら、いかせん未だ立志伝の途上にある人物だからして、企業的なブランディングを抜いて視聴することは極めて難しい。さらに、未だ立志伝の途上にある人物だからして、今日に至るまでのエピソードが少なすぎ、前半の密度感に比して後半の失速感がハンパ無い。高い評価の理由に首肯できるのは最初の一時間だけで、単体の映画作品として考えた場合の評価は低いものにならざるを得ない。また、エンディング間際でとってつけたザッカーバーグの「いい人」方向のキャラ立てには、本人からのプロパガンダの臭みを強く感じる。ただ、これだけ薄い中身を撮影と編集の技術で二時間に膨らませた監督の手腕には、素直に敬意を表したい。

アンストッパブル

デンゼル・ワシントンが主演の時点で、米国の低所得者慰撫が目的の映画であることは確定的に明らか。機械と人間、資本家と労働者、若者と老人、恥ずかしいほど塗り重ねられる対立の構図へさらに並行する家族の問題。あらゆるテーマが列車の暴走を食い止めることへ収束し、二時間が経過する頃にはすべてびっくりするほどきれいさっぱり解決する。きっと労働者階級の憤懣による蜂起をくじくため、老人の資本家どもが「やはりグリフィス四重奏団の音は世界一だねえ」とか言いながら(マスターキートンからの知識)、後ろ手に縛られたデンゼル・ワシントンのビキニパンツへ百ドル札とかいっぱい突っ込んで作らせたに違いないよ! こんなのがすごい面白いなんて、く、くやしい……ビクンビクン!

アポロ13

劇場で見た際にも感動したのだけれど、それは話のスケール感とSFっぽさに対する漠然とした中身に過ぎなかった。今回あらためて視聴する機会を持ち、普段はまとまらない組織がひとつの大目標や危機の共有を通じて結束してゆくダイナミズムに心うたれたのである。そして、十五年という歳月がもたらしたものに感慨を覚えたのだった。君と私が何よりの生き証人だと思うが、個として切り離された場合の人類がまったくどうしようもないふるまいをする生き物であることを否定はできまい。だがもしかすると総体としてならば、我々は何か大きな命題を成し遂げ、ある種の崇高さに至れるのではないかという淡い錯覚――それは希望の別名である――をこの映画は与えてくれる。もっとも、本邦においてはここ半世紀というものずっと、結束へと向かう熱の高まりはすべて、民族レベルの防衛機制が自動的かつ徹底的に無意識を検閲し、シラケへと上書きされてしまう状態が続いているのだが! 紙と鉛筆で軌道計算をするところと、苛立たしく投影機を脇へやって黒板にチョークで書きつけるところが、すごく好き。

鈴木先生(11)

「そんなにやりたいんだったら…その子の代わりに――わたしをおやりなさい!!」「!! あ…あれは…猫足立ちからの…前蹴り連続…!! いかん…浅いッ!!」 え、ちょ、これ学園ドラ……いや! いやいやいや! ブラヴォ、ブラーヴォ!

バーレスク

"You haven't seen the last of me." 人生のあらゆる不条理を歌と踊りで解決する、清く正しいミュージカル時空。本邦では二次元アイドルの処女性が銀河を救済するのに対し、本作では三次元非処女のビッチダンスが場末のクラブを救済しており、彼我の文化間にある深い隔絶へ思い至らせるとき、哲学的な目眩さえ生じるのであった。終盤の解決を歌唱力ではなくシナリオに依存したため、若干のタルさと不完全燃焼感が残るが、ミュージカルなんだ、こまけぇこたぁいいんだよ!

ブラックジャック劇場版

すべてがスーパーフラットな本邦において、才覚や能力で衆に秀でた誰かが己の上に立つことは、許しがたい恥辱である。つまり血筋や世襲という方法は、他者への嫉妬が深く根ざした文化の、消去法による選択なのだ。しかしながら、アニメや漫画という新しい創作にまでそれが適用されるとき、そこにはある種の滑稽さがにじまざるをえない。もしかすると、宮崎や手塚は遠くない未来、市川や尾上と同じように扱われるのかも知れぬ。だが、己の子でさえ己の個とは似つかない。遺伝子を残す代わりに作品を残すのが、作ることの本質ではなかったのか。私にとってのブラックジャックは出崎統しかないことを、改めてここに宣言しておく。

デュー・デート

「論理的である」というのは現代人にとっての陥穽だ。数式や定理ではないそれは、万人に通じるという前提を持たないにも関わらず、有効性を疑われない状態に置かれている。論理性とは、個人の解釈に世界を矮小化するための筋道に過ぎず、物語化された後の世界が第三者に対して常に意味を為すわけではない。究極的に論理と宗教とは同義であり、それゆえ人間が二人いれば、この世に新たな教義が顕現する可能性がある。その特殊性こそが、人と人との関係性として、人生へ新たな意味付けを行うのだ。小生はそろそろ、頼みにならない相棒しかいないこのインターネットから抜け出し、現実のファック野郎とトレイラーでアメリカを横断したい。

ベリード

小生の少なくはない映画視聴歴において発見した法則に、「低予算映画はバッドエンド」が挙げられる。1つ目の仮説は、設定と脚本へ大きく依拠せざるを得ない宿命が、視聴者をあざむく方向へとそれらを複雑化させるからというもの。2つ目の仮説は、低予算しか与えられない監督が新人である可能性は高く、その若さが本邦で言うところの中二病に由来する後味の悪い幕引きを求めるからというもの。今作がいずれに該当したかはわからないが、高めに高めた息苦しさの後、多くの視聴者が求めるだろうカタルシスをあえて外した結末に、ひどく低予算映画を感じた。90分の閉塞が視聴者にもたらしている感情をなぜ利用しないんだろう。ミステリ的な脚本の収まりや現実への批判を含ませたい意図はわかる。でも、生理的解放感という単純さを嫌ったというだけの理由なら、もったいないなあ。


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