美少女への黙祷(4)
よい大人のnWo » WaWW-5 » 美少女への黙祷(4)
高天原と一年を過ごした家をもう一度訪れようと考えたのは、元山宵子の存在の他にはない。
ぼくは高天原を理解したかった。存在したのかもしれない、別の結末を確かめたかった。元山宵子は、きっとそれを知っているに違いない。
電車に乗り込んであの無人駅へ向かうのは、思っていたよりもずっと簡単だった。消し忘れられた鉛筆の線を上からなぞるように、ぼくはそれを何の決断もなく繰り返すことができた。人生は、きっとこういうふうに広がっていくのに違いなかった。思考ではなくただ行為により世界はその境界を外側へ広げて、広がった境界がまた新たな行為を可能にする。しかし、その理解はぼくにとってあまりに遅すぎた。
改札出口の長い階段を降りてからあの家にたどりつくまで、丸二日かかった。記憶を頼りに幹線道路沿いを行き、山道を延々と徒歩で登った。
ぼくに欠けていたのは、物事の連続性を理解する能力だった。昨日と今日に違いのない生活を続けていると、人の行動によって現実が変わるということ、変わった現実はそのままに固定して二度と元へは戻らないということ、この当たり前の実感が薄れてゆく。これまでのすべては無かったようにあそこにはまだ高天原と元山宵子がいて、籐椅子に腰かけたり、縁側で足をぶらぶらさせたりしているのではないかと、ぼくは半ば本気で期待していた。
どれくらい登ったろう。進むにつれ、周囲を取り巻いていた白いもやが薄れてゆくのがわかる。ぼくの足は次第に速度を速め、ついには駆けだしていた。
白いもやと陽光の境目を駆け抜けるとそこには――
雨戸を閉め切られたわらぶき屋根の家があった。
前庭へと下ってゆくが、もう鶏はどこにもいなかった。玄関は固く施錠されており、雨戸を引こうとするがわずかも動かない。家の周りを歩いても、人の気配は感じられなかった。
ここではすべてがもう終わっていた。わかっていたはずだったが、ぼくはその理解に呆然となって座り込んでしまう。
どのくらいそうしていたのか、気がつけば周囲は暗くなり始めていた。振り返ると、わらぶき屋根の輪郭が闇の深さに滲んでゆくのが見えた。それは、冷厳たる現実がぼくの夢想を浸食してゆくさまを表しているようだった。現実は常に不可逆なのだという実感が、急速に胸の底に降りてくる。
ぼくは怖くなって立ち上がり、元来た道を逃げ帰った。
一睡もせずに駅前へとたどりつくと、何か食べるものを買うためによろめきながらコンビニの自動ドアをくぐる。すると、思いもかけない温もりが全身を包むのがわかった。それは懐かしい、記号に守られたあの安らぎだった。
コンビニの前の駐車場に座り込み、弁当を口にしながら考える。元山宵子はいつも制服を着てぼくの前に現れた。ということは、この周辺に彼女の通う高校があるのではないか。
駅の周辺を捜索し、公立高校を見つけた。女生徒は元山宵子と同じ制服を着ていた。生徒たちの登下校時に、校門の前に立った。けれど一向に彼女は姿を見せなかった。
何日かが無為のまま過ぎた。食事はコンビニで済ませ、夜は路傍で眠った。それ以外の時間は、校門を遠くから眺めた。一度、教員らしき男たちがやってきて、警察を呼ぶぞとぼくを怒鳴りつけたからだ。
ぼくには思いだけがあり、何の準備も計画もなかった。だから、ぼくが元山宵子に再会できたのは、本当に偶然であるとしか言いようがない。コンビニの窓越しを歩いてゆく元山宵子を、最初ほとんど見過ごしてしまうところだった。彼女は制服を着ていなかったからだ。ぼくはあわてて店を出て、その後ろを追いかけた。見間違いようもなく、元山宵子だった。
彼女の後ろをしばらくついて歩きながら、どう話しかければよいのかぼくには全く見当もつかなかった。ぼくは彼女の本当の名前すら知らないのだ。ぼくと元山宵子との接点は、高天原の他には何も無かった。
「高天原とあなたの関係について、教えてくれませんか」
ぼくがようやく発した言葉に、元山宵子が振り返る。
彼女は眉根を寄せて、こちらを見た。眼鏡はかけていなかった。彼女の瞳の奥にあるかぎろいを、ぼくは不思議な既視感をもって眺めた。ぼくはその正体を知っているはずなのに、ずっと思い出せない。
「ここでは人目がありますから」
そう言うと、元山宵子は身をひるがえして再び歩き出した。その大股な歩き方は、ぼくの知っている元山宵子に似つかわしくなかった。
彼女はズボンをはいていた。
実在する他人にはそれだけで強制力がある。何を命じられたわけでもないのに、ぼくには黙って後ろをついていくしかできなかった。
やがて、元山宵子はぼくたちが最初に出会った空き地へと入っていった。ぼくは待ちかまえる彼女とちょうど対面する形になる。
「どうして戻ってきたんですか」
そう問いかける元山宵子は全くの無表情だった。
ぼくはいよいようろたえてしまって、もごもごと高天原について考えてきたことを言ったが、口に出してしまうとそれはまとまりも説得力もない、ただの薄っぺらな妄言だった。こんな馬鹿げた考えにずっと執着している自分が、ひどい間抜けに思えた。
どうして口にされた言葉はいつもすぐに冷えるのだろう。離れてゆく言葉はアルコールのように気化して、心の中の熱を奪い去って、ぼくを空っぽにしてしまう。
高天原さえいてくれたら! ぼくは切望する。高天原さえいてくれたら、こんな間抜けな場面で立ち往生させられずにすむのに!
ぼくはもう元山宵子の目を見ていることができなくなって、うつむいてしまう。
「私――」
長い沈黙の後、元山宵子が口を開く。ぼくはつま先からはじかれたように顔をあげて、彼女を見る。
そのときのぼくの顔はどんな期待に、そして希望に濁っていたことだろう。
「母が亡くなって、大学に入るお金が必要だったんです。一年間ゲームの制作につきあってくれたら、四年分の学費は出してやるからって誘われて。予定より少し早く終わってしまったけれど、私、この一年間本当に――」
元山宵子の唇が動き、音が発された。
大気が揺れ、ぼくの鼓膜を揺らし、ぼくの脳に音像を結んだが、最初その意味が理解できなかった。高天原はぼくの予想が追いつかない言葉で話し、それがぼくに不安と驚きを与えたものだったが、元山宵子の話す言葉に予想がくつがえされるのはこのときが初めてだった。
「気持ち悪かった。友だちがクラスのおたくっぽい子を指さして、気持ち悪いって言うのを聞いたことはあったけど、それは外見のことだとずっと思ってました。でも、そうじゃなかったんですね。どうして私についてきたんですか。どうして私に声をかけることができたんですか。いったい私の何に勘違いしたんですか。どうして私が高天原との関係を、例えそれがどんなものであれ、あなたに告白するだなんて、とんでもない妄想を少しでも信じることができたんですか。まるであなたたちの好きなゲームのように、私と何も話さなかったことで私との間に”フラグが立った”とでも思ったんじゃないでしょうね。”フラグが立つ”、なんて汚らしい言葉なんでしょう。おたくの欲情をそのまま連想させる、いやらしい語感!」
ぼくはまるで記憶喪失の人間が記憶を取り戻すかのように、突然思い出していた。
元山宵子の瞳の底に、いつもあったかぎろい。
ずっとずっと昔、ぼくが他人の瞳の中にいつも見慣れていたその感情。
それは、”敵意”だった。
「なぜ私をずっと無視し続けてきたあなたに、あなたの尻の座りが悪いからという理由で、私にとって大切なことを教えなくちゃならないんですか。私、あなたのことずっと、しゃべれないかわいそうな人だと思ってました。いまさっき、そのくぐもった気持ちの悪い声で話しかけられるまで。なんで一言もしゃべらなかったんですか。何を言っても黙って薄く笑ってるだけで、いつも私の目を見ることができなくて、そのくせいつも私の方をちらちら盗み見てて――本当に、あなたのことがずっと気持ち悪くてしょうがなかった! 高天原にあなたの書いた文章を見せてもらいましたけど、自分のことを繊細で傷つきやすいって思ってるんですよね。世界って言葉をたくさん使うくせに、誰ひとりあなた以外の人間が出てこない、本当に気味の悪い文章だった。『人は自分以外の人間を苦悩者とは認めたがらない』、小説からの引用ですけど、あなたは世界っていう言葉で表現したすべての他人を、自分が苦しむための書き割りぐらいに考えているんじゃないですか。あなたは、その在り方の根っこの部分がすごく気持ち悪いんですよ。誰よりも他人に甘えていろんな侮辱を許してもらっているくせに、それに気づかない」
頬が熱くなり、何かを言わねばと口を開くが、喉の奥ですべては固まっていて、老人が痰をきるような濁った音がわずかに響くだけだった。そんなぼくの様子を見てか、元山宵子の表情はいっそうの敵意と嫌悪に満たされてゆく。
「高天原があなたの焦燥を代弁してくれていると思っていたんじゃないでしょうね。あそこにいた全員が彼の話す言葉に心服してカリスマ扱いしてましたけど、あの人はあなたたちおたくの群れの中でただひとり、ふつうの人間だったというだけじゃないですか。高天原は自分のことを話していただけで、それが一般化に耐えるほどの強度を持ち合わせていたというだけで、一度だってあなたたちのために話したことなんてなかったですよ。それなのにあなたたちは勝手な感情移入で御輿にかつぎあげて、彼を追いつめていった。ああ、可哀想な高天原! 際限なく広がる妄念と、井戸の底から見上げる空のような狭い人間理解、自分の才能が他人を変えることを信じられるほど傲慢で、自分が関わった人たちの人生をそのまま抱え込んでしまうほど真摯だった高天原! こんなつまらない人たちのために、愚かな計画に我が身を捧げるなんて! あなたたちは井戸にはまりこんだ高天原を助けあげることもせずに、ときどきのぞき込んでは彼の必死の悲鳴を聞くことを楽しんでいた。高天原は彼の理解した人間に絶望しながら、あの手この手で声をあげ続けた。ただ、あなたたちを自分のはまりこんだ井戸の周囲に呼び集めるためだけにですよ。高天原がとびきり滑稽な、あるいは悽愴な悲鳴をあげたときだけ億劫そうに立ち上がり、無言の薄ら笑顔でのぞきこんで、なぜ彼がそうするのか理解しようとさえしなかった。あなたたちにとって彼の言葉は自分たちの無気力を格好良く飾るための手軽なファッション、社会に関わらないための膨大な時間を潰す片手間のエンターテイメントでしかなかったんでしょう。だから、この結末は当然だった。高天原は引きこもりや少女略取や親族殺害や、そういった現代的な病のすべてに自分と自分が代表するものの影を見てとって、わずかにせよ自分が責任を負っていると思い続けてきたんでしょう。ただ自分が救われたいために紡いだ言葉が誰かの人生に取り返しのつかない影響を与えてしまったことを悔いて、何とかしなければと思い詰めていったんでしょう。こんな人間以前の存在のことを心からの真摯さで考え続けるなんて、高天原の愛情と共感はいったいどれほど深かったんだろう。あなたたちはそれが一人の個人にとってどんなに重い信頼であるわかっていたんですか。わかっていて、彼の真意を無視し続けていたんですか」
何かが致命的に間違っていた。どうしてぼくは元山宵子と会うことで解決が得られるように錯覚したのか。
爛々と燃え上がる彼女の瞳は魔のようにぼくを呪縛し、ぼくはここから半歩身を離すことすらかなわない。
「あなたは一度、夕食のときにご飯を食べながら泣いてましたよね。私はそれを見ていて本当に、身もだえするほど恥ずかしかった。自分の恥ずかしさが誰かへの憎しみに変わることがあるなんて初めて知りました。泣ける自分が可愛いかったんですか。ただ自分のことだけですべてを理解したような気で、自分の感情だけを高みへと捧げもって、何もかもあなたの都合のいいように当てはめて――飽食なおたくが怠惰に時代を流れされてきただけのことなのに、摩耗した感性を世界的な苦悩に高めるために、あの状況にわざわざ涙を流してみせたんですか。あなたの抱えてきた家庭や生活の状況がどんなものかは知りませんけれど、あなたは引きこもりのおたくに陥ることができるほど恵まれているんだから、別にそんな涙に値するような、世界という言葉で普遍化して鑑賞に耐えるような美しいものを持っているわけじゃないでしょう」
ぼくがおたくだって? ぼくがおたくだっていうのか!
元山宵子の、いや、その女の瞳がまるで鏡のようにぼくの姿を映し出しているのが見えた。
そこにいたのは、おたくだった。
これまでの遍歴の中でぼくが出会ったすべてのおたくたちのどれとも似ている、まぎれもないおたくだったのだ。
「繊細な感受性が時代の過酷さに打ち負かされたんじゃありません。時代の豊かさのおめこぼしを授かっているだけなんですよ。社会から無視されているだけのことを、自分たちからの積極的な拒絶と読み替えるその特異な能力にだけは、感心しますけれど! 上の世代の価値観のゆらぎを出歯亀の陋劣さで盗み見をして、つまり人の弱みをにぎってのゆすりたかりの類、みんなが困った顔をして見ないふりをしてくれているのをただ調子にのって増長してるだけじゃないですか。誰かが自分の無為にそれらしい名前をつけてくれれば、それで満足なんでしょう。あなたの書いた文章に頻繁に登場した、あなたを縛りつける目に見えない”波紋”という考え方、私には気持ち悪くてしょうがない。それはあなたを”時代にあらがえないほど繊細な苦悩者”として位置づけるための装置なんでしょうが、苦しんでいるふりで両手で我が身を抱きかかえて愛撫して、横目でちらりと他人の反応を気にしている。あなたは自分の境遇を哀れむことに執着するあまり、他人に同じような苦しみが存在するのを認めようとしないんです。あなたにとって他人の苦しみを認めることは、それが自分の苦しみを相対化して、価値を無くしてしまうのを認めることなんですものね。自分の唯一の持ち物を、他人ぐらいに無いようにされてはたまりませんからね! あなたたちおたくは、外見はそんなに薄汚くしているのにいつだって周りの干渉を拒否して、気持ち悪いほどに心の清潔さを保とうとするんです。あなたたちに比べれば、私は商売でゆきずりの異性と寝たり、子どもを虐待して死なせたりする人たちの方がずっと好ましいと思える。少なくとも、自分たちの血を流していますもの! 私は本当に心の底から、こうでも例えなければ言い尽くせないほどあなたたちのことが頭にきて、気持ち悪くてならないんです。自分の心を清潔に保つためなら、重荷に押し潰されそうな涙を溜める老婆の背中へ、顔をのぞき込むことも声をかけることもなしにこっそりと新しい藁束を加えたりする行為にあなたたちはきっと何の痛みも感じないでしょう。あなたたちは自分の吐き出した汚物を処理するのに、相手の顔にそれをなすりつけるんです。しかも、自分では内面の繊細さを表していると思っている、お得意の弱々しい苦悩の微笑を浮かべながら! 自分の繊細さをこの世の中で一番上の価値に置いているから、そんなことができるんですよ。他人の価値観を自分のものとすりかえて肯定するくせに他人を認めない。どんな傲慢さと鈍感さがそれをさせているんですか。その様子だと、私が次に何を話しだすのか、さっぱりわからないでいるんでしょう。罵られる屈辱に、せめて激昂して殴りかかる素振りぐらいみせてはいかがですか。無理でしょうね。なぜって、私は美少女キャラクターじゃないから。あなたたちおたくにとって私はすでに不要と切り捨てた存在で、決して手の届かない、触れられない場所にいるも同然なんですから。あなたたちは高天原の至って個人的な幼少期の体験に自分たちの有り様を重ねていましたよね、”自我は知性の牢獄”だって。高天原にとってその言葉は彼の人生のテーゼだったけど、あなたたちにとっては単なる癖に過ぎないでしょう。強い決意があればやめられる類の悪癖を、神棚に上げて奉っているんです、それ以外に持ち物が無いから。自分たちの無為に格好良い名付けをしてくれた高天原に、心底やられてしまったんですよね。高天原の言葉が格好良く響いたとすればそれは高天原が話したからであって、あなたたちが同じ音を発して自分の薄ぺらな人生を補強できるなんて、妄想ですよ。可哀想に、言葉そのものに価値は無くて行動がそこに意味の裏付けをすることを知らないんですね。もっとも私があの家にいて、突然演説を始める高天原とそれに聞きいるあなたたちの姿を見て考えたのは、『ツルツルした顔でしゃべるこの高天原とその追従者たちは、小難しい言葉遊びの途中の絶頂で突如闖入してきた誰かに無言で顔面をぶん殴られたら、いったいどういうふうな反応をするんだろう』ということばかりでしたけど! 自我は知性の牢獄――本当に、格好良いですよね。でも自我はあなたの中には無いんですよ。それは自分以外の誰かとの関係性を指しているんです。あなたが心酔する高天原の影響を受けたシナリオで示していたのとは真反対で、関わる相手が多ければ多いほど、関わる相手が自分と異なっていればいるほど、自我はより強靱に柔軟になってゆくんです。これくらいのことはみんな当たり前に実感として持っていますよ。誰もわざわざ、高見の見物で無視をきめこむあなたたちおたくには話してくれないだけで。あなたは自分のことを、この社会の中で異質な存在だと考えていたんでしょう。そしてその勝手な思い込みが、いつのまにか生きていくための拠り所としてすり替わってしまった。私に言わせれば、あなたはただバランスを喪失してしまっただけの凡人です。あなたは異質どころではなくて、同質なものにしか耐えられないから同質なものだけをかきあつめている、ただの凡人なんです。私が一番あなたたちのことを汚らしいと思う点は、愛情を繰り返すところです。誰かとの関係において自分が確かに変わっていくのを相手に理解させ、相手が変わってゆくことも受け入れるのが本当の関わりだと、その変化の連続が人生を形づくっているんだと私はずっと考えてきました。あなたたちのやり方は逆なんです。あなたたちはいつも屈辱を感じないためだけに自分がいる現在の瞬間までのことは無かったふりで、状況と自分自身にリセットを繰り返している。人と交わることの蓄積を拒否し続けている。例えばひとつのゲームが終わってしまえば、その愛情は全く無かったふりで別のゲームを取りだして、まっさらの無垢な自分で別の愛情に没頭することができる。異常です。異常ですよ。ただの性欲のはけ口ならまだ理解できます。でも、あなたたちはそれぞれのキャラクターに与えられた明らかな人格を弄んでいるんですよ。罪悪感は無いんですか。冒涜を感じないんですか。ほんの少し昔までなら議論の俎上にものぼらず、その不適応の果てに誰にも看取られることのないまま野垂れ死んでいた人々が、あなたたちおたくなんです。つまり、あなたたちの苦悩とやらはどこまでいっても人間の本質の埒外で旋回しているだけで、この世で唯一の純然たる不要物なんです。あなたたちおたくが主張しているのは、弱者の市民権運動どころの控えめさではない、どこにも欠損のない五体満足の大人が自分たちの気持ち悪い趣味やら性癖を人類全体のスタンダードにしてくれと願い出ている、あきれ果てた暴挙なんです。健常者が『実は不倶なので、どうか差別して欲しい』とにやにや笑いながら申し出ているような、人道に外れた露悪趣味なんです。鏡写しの近親憎悪からお互いに目を反らしたまま、個々のおたくが好き勝手に自分の違和感を表明するだけの、数だけは集まりながら社会集団の兆しさえ無い人々の群れの、妄言なんですよ。もうこれ以上何かおたくの独自性への主張をするのをやめて下さい。道をふさぐ岩を持ち上げて別の場所へ移動させるように、ただその臭いのする口を閉じて身体を動かせばいいんですよ。ただそれだけで、あなたの中のおたくはすべて解決するんですから。さあ、これで話はおしまいです。いつまでそこに突っ立っているつもりですか。本当に、気持ち悪い!」
ばかに大きな声がするなと思ったら、それは自分がわあわあ泣いているその泣き声だった。ぼくはその女の話が終わるのを待たずに、もう身も世もなくわあわあ泣きじゃくっていた。その女がぼくに寄越している生理的な嫌悪に満ちた視線に、敵意に、これまでのその女へのぼくの一方的な入力はすべて吹き飛んでしまっていた。その女はぼくにとっての虚無の器ではなくなったのだ。こんなに泣いてみせるのに、ぼくの感情はその女に一切の影響を与えないのだ。
そう気づくと、心が一瞬で冷えた。感情がぼくを取り巻く環境とは干渉し合わないというのは、ぼくの人生の中での一番はじめの気づきだった。ぼくは全くの無感動でその女にさよならと言おうとしたが、嗚咽でつっかえて「さよ、なら」と言うはめになってしまった。ぼくの心はもう全く冷えてしまっているのに、まだ喉に嗚咽が残っているのが不思議でならなかった。いつだって、感情と肉体は同期を外しているのだ。
見知らぬその女に背を向けた次の瞬間、もうこれまでのすべてはぼくの中で無いのと同じになっていた。
ぼくはいくぶん長く人の間にいすぎたのかもしれない。
最初の一歩を踏み出す頃には、ぼくは暖かい、ぼくだけしかいないあの場所のことをただひたすらに切望していた。
ぼくはそこで眠るのだ。
いつか、少女と両親を殺す日を待ちながら。
もうこのあたりでとめてよかろう、と諸兄は考えているだろう。私もそれに同意するところである。結局、おたくたちの精神とは、高天原に見いだされたおたくがその生の革命を我々にほのめかしながら最後の最後で翻心したように、この種のループ構造に他ならない。おたくは語り手たりえても、主体であることはかなわない。諸兄が最後に見たように、おたくが他人の真相にたどりつくことはない。
高天原勃津矢は、この後に続くだろう長い長い裁判の中ですべての虚飾を剥がれ、ただの狂人であることを世界に証明されるはずだ。彼がエロゲー制作という、自身の空想の完全さの中で遊ぶだけに満足できなくなったとき、すでにこの破局は予言されていた。
言葉のすべては後づけに過ぎず、そして後づけに過ぎない以上、どんなふうにある個人や事象が表現されたとしても、あらゆる矛盾を呑み込んで、あますところなくどれもが正しい。つまり言葉の究極とは多数決であり、おたくたちが望んだ自己定義を受け入れてもらうことは、その意味で不可能である。おたくたちの抱く虚無や諦観も結局のところ、そんな不確かさ、あるいは確かさによるものなのかも知れないが、この推測さえ多数を得られぬ言葉のひとつに過ぎない。
「地獄では、蛆は永遠に死なず、火は消えない」(マルコ 9:48)